海南島(海南省)の万人坑
八 所 港 万 人 坑

 八所港万人坑
海南省東方市

 海南島西部の昌江地区にある石碌鉱山で産出する鉄鉱石や昌江地区の森林資源を海南島から日本などに搬出するため、石碌鉱山から50キロ離れた西海岸にある八所に港が必要だということになる。そのため、日本が海南島を占領した1939年から八所港建設工事が開始され、1941年に完成する。この間に、石碌鉱山と八所港を結ぶ50キロの鉄道や発電所なども併せて建設された。
 これらの土木建設工事を実施するため中国人農民らを主体に三万人余が強制的に徴用されるが、その中に、インドネシア・オーストラリア・オランダ・カナダなどの捕虜も含まれている。これらの三万人余の人たちが八所と周辺に収容され、貧弱な食事など劣悪な生活環境の下で過酷な労働を強制される。病気になっても治療を受けることはできず、伝染病だと疑われた人が生き埋めにされることもあった。反抗的だと見なされた捕虜などは監獄に収監され酷い扱いを受ける。そして多数が死亡し、途中で逃走した2000人以外で建設工事完了まで生き残ることができたのは6000人だけだ。こうして、八所港建設に関わる強制労働で2万2000人が犠牲になった。
 犠牲者の遺体は当初は焼却処分されるが、死者が多くなると、八所港のすぐ近くにある沙漠などに捨てられたくさんの万人坑(人捨て場)が形成された。
 大量の遺体が捨てられた八所港のすぐ近くの沙漠には2005年までは遺骨が散乱していたが、研究者らが拾い集めたので、今は沙漠表面に遺骨は残っていない。しかし、沙漠の表層の砂を少し掘れば今も遺骨が残っているのを確認できるだろう。なお、犠牲者の遺体が捨てられた当時の沙漠に草などはほとんど生えていなかったが、今は草が生えるようになっている。
 反抗的だと見なされた捕虜などが収監された監獄は八所港の近くにあったが、そこにホテルが建設されることになり、500メートルほど離れたところにある万人坑の沙漠に監獄棟のうち二棟が2012年に移設された。同じ2012年に高層アパート建設のため、八所港万人坑に関わる惨劇を伝える巨大な記念碑は破壊され撤去された。その巨大さゆえに移設が困難であったのと、監獄のような史跡ではないというのが、それまで八所港万人坑の象徴のような存在であった記念碑が撤去された理由だ。一方、近いうちに労働記念公園を八所港に整備・建設する計画があり、博物館などの展示施設の建設と共に巨大な記念碑の再建も議論されている。
 日本侵略下の八所港建設工事では、多数の中国人らと共にオーストラリア人捕虜1300人も強制労働を強いられたが、そのオーストラリアのダーウィン市と八所港がある東方市は友好都市になっていて、両市の友好を象徴する記念碑が東方市に建設されている。

写真:2014年11月13日撮影 


 海南島地図(位置)
 海南島は、中国本土(大陸)の南方に浮かぶ巨大な島。面積は3.4万平方キロで、台湾(3.6万平方キロ)よりほんの少しだけ狭い。ベトナムのハノイより南に位置し、南側は熱帯気候に属するこの島に37民族・870万人が暮らす。そのうち720万人が漢族で、残りの150万人が黎族・ミャオ族・回族などの少数民族。一年中緑に覆われる温暖なこの島に11月から3月にかけて大陸からたくさんの人がやって来て暖かい冬を過ごす。

 海南島地図
 八所港は海南島西海岸の東方市八所にある。

 八所港旧岸壁(埠頭)と灯台
 灯台がある高台から手前側が八所港旧岸壁(埠頭)の一部。日本の侵略下で造られた岸壁の石組みの一部が海岸線の波打ち際に残っている。この辺りは解放後も長い間放置されてきたが、近年になってこの近くに高層アパートなどが次々に建設され、画面の左端に少し写っている駐車場が7年前に造られた。

 八所港旧岸壁(埠頭)に残る石組み
 前の写真の中央部に見える、日本の侵略下で造られた岸壁(埠頭)の石組みに近づいてみる。この石組みの岸壁が、中国人労工らの命と引き換えに造られた。

 現在の八所港を望む
 八所港旧岸壁(埠頭)から、荷役用の近代的なクレーンが立ち並ぶ現在の八所港が見える。画面左側上寄りの海上に、日本の侵略下で造られた石組みの埠頭が見える。

 監獄(一棟目)
 八所港建設工事で強制労働を強いられた労工は、現場監督から反抗的だと見なされると、監獄に収監され酷い扱いを受けた。監獄に収監されるのは、中国人農民でなく捕虜(兵士)が多かったようだ。

 監獄(二棟目)
 監獄棟があったところにアパートが建設されるため、元の場所から500メートルほど離れた八所港万人坑のこの位置に監獄棟のうち二棟が2012年に移築され、史跡として保存されている。この写真の奥の方に、八所港万人坑にされた広大な沙漠が広がっている。

 八所港万人坑
 犠牲者の遺体が捨てられた当時は草木が生えていない砂原だったが、やがて草で少しずつ覆われるようになる。万人坑の沙漠のその先に、東方市街に林立する高層ビル群が見える。

 八所港万人坑
 この沙漠の万人坑に解放後も遺骨が放置されてきたが、2005年に研究者らにより収集され、今は表層に遺骨は残っていないようだ。しかし、表層の砂の下にはたくさんの遺骨が今も埋められたままだ。

 八所港万人坑/犠牲者追悼式
 八所港建設に関わる強制労働で死亡した2万2000人の犠牲者を追悼する。万人坑の沙漠に花を供え、追悼の言葉と不戦・平和の誓いを中国語で読み上げる。画面の右手背後に見えるのは、2012年に移築された監獄棟。

 八所港万人坑/犠牲者追悼式
 万人坑の沙漠に供えた花と、不戦・平和の誓いを記した色紙。画面の奥に見えるアパートなどを建設するため監獄棟は移築され、巨大な記念碑は史跡ではないということで撤去(破壊)された。

 秦巍さん(左)と覃啓傑さん
 秦巍さん(左)は東方市博物館の館長さん。八所港万人坑を熱心に案内してくれる。覃啓傑さんは通訳兼任のガイドさん。桂林から駆けつけ、今回の海南島の旅に最初から最後まで付き合ってくれる。



 労工により建設された八所港
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 八所港万人坑の遺骨
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 八所港死難労工記念碑(2004年)
【李秉剛教授(北京)提供写真】




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