東 寧 要 塞 万 人 坑

 東寧要塞万人坑
黒龍江省牡丹江市東寧県

 関東軍の中ソ国境要塞群
 1931年9月18日の柳条湖事件を口実に中国東北地方全土への侵略を公然と開始した日本は、1932年3月には傀儡国家「偽満州国」をでっちあげ、東北地方全土を占領・支配する。さらに、「偽満州国」の国境警備と対ソ戦争への備えとするため、対ソ作戦上の戦略要地に軍事要塞群を設置することを1933年に決定し、中ソ国境線の大規模な要塞群の構築を1934年に開始する。
 中ソ国境線への要塞群の構築はおよそ三つの工程に分けることができる。そのうち第一期工程は、東寧・綏芬河・半截河・虎頭・琿・黒河・ハイラルなどで進められ、1937年末には第一期予定分の大半が完成する。建設工事がやや遅れた虎頭要塞も1938年春には基本的に完成する。ひき続き、第二期工程・第三期工程へと要塞構築が進められ、1945年の日本敗戦まで要塞構築に関わる建設工事が東北地方の各地で続いた。
 こうして関東軍(日本軍)は、14ヶ所の主要な要塞を中ソ国境沿いに構築する。要塞群の設置範囲は、東は吉林省の琿春から黒龍江省を経て、内モンゴルのハイラル・アルタイなど西方の戦略要地まで数千キロにおよぶ。
 この、長大な中ソ国境沿いの軍事要塞群の構築に連動し、空港・鉄道・道路・橋・トンネル・倉庫・兵営・病院などの関連施設も同時に建設された。このうち、鉄道建設の主な狙いは、「偽満州国」東部および北部の中ソ国境沿いの軍事作戦を兵員や物資の輸送という物流面から支えることであり、1933年末から1937年までの間に、総延長3600キロの鉄道線路を満鉄は建設する。それ以降も、牡丹江を中心とする東部国境鉄道網の整備を進め、対ソ軍事作戦を見すえた輸送能力を強化した。また、軍用飛行場だけでも400ヶ所以上が造られ、全ての国境要塞地区など主要地区に空港機能が備えられた。
 ところで、これらの中ソ国境軍事要塞群や関連施設の土木建設工事を遂行するため320万人余の中国人を強制連行などで日本が徴用し、衣食住全てに劣悪な条件の下で過酷な労働を強制し、100万人余を死亡させたという事実がある。日本の中国侵略、あるいは中ソ国境の関東軍要塞群について考えるとき、加害者の日本がこの事実から目をそらすことは許されないことを日本人は自覚しなければならない。

 東寧要塞
 東寧は黒龍江省の東南端に位置し、東方のソ連極東地区と国境を接している。また、東寧からソ連極東の軍港・ウラジオストックまでは160キロで、対ソ戦略上における東寧の位置付けは重要であった。そして、1934年から関東軍により構築が開始される中ソ国境要塞群の一つとして東寧にも大規模な要塞構築が計画された。
 東寧での要塞建設は1934年6月に始まる。そして、第一期分の工事が1937年末に完成し、永久性陣地7ヶ所、鉄筋コンクリートで重要な個所を固めた野戦陣地45ヶ所、一般的な野戦陣地3ヶ所、軍用空港10ヶ所、地下弾薬庫84ヶ所などが建設された。さらに、第二期工事が1940年から1944年にかけて進められ、綏芬河と白刀子山の間に永久性の陣地4ヶ所が造られる。  それ以降も日本の敗戦まで続く東寧要塞に関わる土木建設工事の範囲は、南は大肚川の甘河子から北は三段営林場の大石粒子まで、中ソ国境沿いに50kmにおよぶ。
 東寧要塞の特徴は、通常の地上陣地に加え、アジア最大と言われる大規模な地下要塞が構築されたことである。麻達山・409高地・三角山・勝洪山・朝日山などの地下要塞群の設置範囲は、中ソ国境沿いの南北方向に20キロ、東西方向に9キロにおよぶ。
 これらの地下要塞内に、大砲の射撃口や弾薬庫、司令部・監視所・航空無線電信室・兵舎・医務室・炊事室・食堂・浴室・貯水池・倉庫・発電所などが造られた。地下要塞の主要部位は厚さ3メートルのコンクリートで固め、口径300ミリの大砲の攻撃にも耐えるようにされている。
 主要な地下要塞の一つである勝哄山陣地の地下道総延長は6000メートルにもなり、外部との連絡が絶たれても、千人の兵隊を一年間は守ることができるとされた。現在一般に公開されていて誰でも入場できる勲山陣地の地下要塞の地下道総延長は3000メートルで、勝哄山の地下要塞はこの倍の規模になる。
 また、地上陣地には、口径300ミリあるいは240ミリの大砲も装備され、各施設の間に四方八方に塹壕が張りめぐらされる。陣地の前面には、深さ3メートル・幅5メートルの対戦車用塹壕が延々と構築された。この他に、兵営や大型倉庫などの関連施設が建設されると共に、飛行場・道路・鉄道などの交通網も整備された。
 そして、第一国境守備隊を中心に10万人余の関東軍部隊が東寧に配置される。そのため東寧県には、東寧要塞周辺の20ヶ村に強姦所(「従軍慰安所」)が設けられ、1000人以上の朝鮮人と日本人の性奴隷(「慰安婦」)が徴用された。また、東寧要塞には細菌弾と毒ガス弾も配備されており、関東軍が東寧を重視していたことが分かる。

写真撮影(2011年8月20日)と解説 青木 茂


 東寧要塞資料館と東寧要塞陣地跡
 東寧要塞勲山陣地がある勲山の山上から南西方向を見る。勲山の直下に東寧要塞資料館(陳列館)が開設されている。資料館前の石畳の広場がやけに広い。写真の遠方左端ぎりぎりに映っている2本の鉄塔が立っている山が勝哄山。その直ぐ右手の山が栄山。それぞれに、東寧要塞を構成する陣地が構築されている。

 東寧要塞勲山陣地
 東寧要塞資料館前の広場から勲山を見る。勲山には、砲台・トーチカなど山上(地上)の陣地に加え、広大な地下要塞が山の中(地下)に造られた。勲山陣地は愛国主義教育基地として一般公開されているので、見学者や観光客がたくさん訪れる。正面の山(勲山)の中腹に、地下要塞に入る見学者用の入口がある。

 勲山地下要塞・通路
 勲山地下要塞内の通路総延長は3000メートル。高さも幅も十分にあり、照明があれば快適に歩行・移動できる。

 勲山地下要塞・中小の部屋
 地下要塞内に、司令部・駐屯室・兵舎・食堂・医務室・倉庫・弾薬庫などに使用する多数の部屋が造られた。

 勲山地下要塞・大部屋
 勲山地下要塞内にある大きな部屋。兵舎として利用するなら、100名くらいは楽に入ることができる。

 中国人労工の宿舎と監視塔
 東寧要塞建設工事に労工として徴用された中国人を収容した宿舎と、背の高い監視塔。いずれも復元されたもので、勲山の裏手にある。当時、宿舎は鉄条網に囲まれ、中国人労工は厳しい監視下に置かれたのだろう。

 東寧労工墳で発掘された遺骨
 東寧要塞資料館に展示されている、東寧労工墳(万人坑)で発掘された遺骨の写真。写真左の遺骨は、両足とも脛(すね)から下が鋭利に切断されている。この人は、みせしめの懲罰で両足を切断されたと推測されている。写真右の遺骨は、顔を下に向け不自然な姿勢で埋められている。この人は、生きたまま埋められたのではないかと推測されている。

 東寧要塞の日本軍が労工を殺害した狼狗圏遺跡
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 東寧老城子溝労工墳の一角(墓=土饅頭)
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 労工墳:両足を切断された労工の遺骨
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 東寧で生き残った労工・李吉貴さん
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 東寧に強制徴用され生き残った勤労奉公者・佟玉賢さん
【李秉剛教授(北京)提供写真】




 東寧要塞建設と中国人強制連行
 東寧要塞と関連施設の土木建設工事は巨大な規模になり、この困難な工事を遂行するため、華北以南も含む中国各地から多数の中国人が労工として集められた。東寧に集められた中国人労工には、東北地方(「偽満州国」)内で徴用された者の他、『一儲けしたいなら「満州」へ』など嘘の宣伝文句にだまされ労工募集に応じたり強制連行により華北以南から東寧に連れてこられた者もいる。さらに、華北地区の強制収容所に収監されていた捕虜や、適当な罪名で各地で捕まえられた者など「特種労働者」も含まれている。
 徴用あるいは強制連行された中国人は労工専用列車などで東寧に移送され、途中で逃げ出そうとする者は銃殺されたり首をはねられたりした。また、移送中の劣悪な処遇のため、移送途中に衰弱などで死亡する者も少なくなかった。
 東寧要塞構築に関わる一連の土木建設工事は、1934年の工事開始から1945年の日本敗戦まで中断することなく延々と続けられ、日本敗戦時にも作業は終了していない。そこに多数の中国人労工が徴用され、強制労働により土木建設作業が進められた。多くは秘密工事なので、中国人労工に対する関東軍の監視は厳しく、過酷な作業と劣悪な衣食住環境の中で生死の境をさまよう厳しい状況に中国人労工はおかれた。
 これらの工事に関わる資料を関東軍が処分してしまったので、労工として徴用された中国人の正確な人数は分かっていないが、大規模かつ長期間にわたる東寧要塞に関わる一連の土木建設工事に17万人余の中国人が徴用されたと推定されている。そして、そのうち数万人の中国人労工が死亡したと考えられている。

 東寧労工墳(万人坑)
 東寧要塞と関連施設の建設工事は1934年から日本の敗戦まで10年以上も続き、この間に17万人の中国人が労工として徴用され、衣食住全てが劣悪な生活条件の下での過酷な強制労働により数万人が死亡したと推定されている。
 死亡した中国人労工の遺体のほとんどは荒野に捨てられ数多くの人捨て場・万人坑が形成されたと思われるが、長い間そのまま放置され、いつの間にか遺骨の行方も分からなくなっている。近年になり遺骨の調査が実施されるようになったが、労工の遺体が当時どのように扱かわれ、どこにどのように捨てられたか今になっても詳しくは分かっておらず、大規模な万人坑も発見されていない。
 こういう状況の中で、現在の東寧の市街地に近いところにある大肚川鎮老城子溝村の北東部山麓には、千人近くが埋められた万人坑が存在することが知られていて、ほぼ完全な状態で現在も残されている。
 その老城子溝は、綏寧鉄道と興寧鉄道の合流地点にあり、東寧の関東軍にとって物流と物資貯蔵の重要拠点であった。このため、この地域の鉄道敷設や物流倉庫の建設工事あるいは物流荷役作業に数万人の中国人が労工として徴用された。そして、劣悪な生活環境の下で過酷な労働を強いられ、多数の中国人労工が死亡する。
 夏期に死亡する労工は現場からすぐに運び出され原野に捨てられたが、冬期に死亡する労工は現場近くにひとまず集めておき、気候が暖かくなるとまとめて運び出され、現場から離れた適当な場所に埋められた。老城子溝村の北東部山麓にある中国人労工の墓・東寧労工墳(万人坑)はこのようにして形成されたものであることが、遺体を運んだ李有才・黄詩義・張金保さんらの証言で明らかにされている。
 その老城子溝の万人坑・東寧労工墳には、遺体を埋めた1000基近くの土饅頭が1メートル程の間隔で整然と並んでいる。遺体処理を命じられた中国人労工が同朋の遺体を丁寧に埋葬したのだろう。
 1994年11月に東寧県文物管理所などが実施した調査では、1000基近くの土饅頭のうち、120平方メートルの範囲にある18ヵ所を発掘し、18体の遺骨を確認した。そのうち一体は棺桶に入れて埋められていたが、他は地中に直接埋められていた。また、18体の遺骨のうち4体は、すねから下が両足とも鋭利に切断されていた。これは、脱走に失敗するなどした労工が、見せしめのため両足を切断されたものだと考えられている。さらに、遺骨の歯を調べた結果、死亡したのは全てが30歳以下の若い人であることが分かった。
 この後、1999年と2000年の二回にわたり老城子溝万人坑の発掘調査が実施され、遺体を埋めた穴は浅く、手間をかけず簡単に埋められていることが分かった。その中で、顔を下に向けて埋められた遺骨も発見されたが、遺骨の不自然な姿勢から、普通に埋められた遺体ではないと推定されている。


 老城子溝の東寧労工墳の遠景
 東寧の中心街から車で十数分の位置にある老城子溝村の村外れから、畑の先にある北東部の山を眺める。遠方に見える山地の中央部の低いところが峠で、そこに東寧労工墳と呼ばれる万人坑がある。これから、畑の中の道を歩き峠に登る。

 老城子溝村の長老・盧詩斌さん
 盧詩斌さんは1935年1月1日生まれで、このとき満76歳。元小学校教師。老城子溝には鉄道の駅があり、日本侵略下の東寧の物流拠点として重視された。そして、多数の中国人労工が老城子溝で物流荷役作業を強いられ、過酷な労働と劣悪な環境の下で多数の労工が死亡した。そういう当時の状況を盧さんは見ている。

 老城子溝村の遠景
 老城子溝村の北東にある峠に向かう途中の山道(まだ畑が続いている)から老城子溝村を振り返る。今は、緑豊かな畑に囲まれるのどかで平和な村なのだろう。峠をめざして山道を登る人が何人か見えるのが分かりますか?

 東寧労工墳での犠牲者追悼式
 老城子溝村の北東部にある山地の峠一帯に東寧労工墳(東寧老城子溝万人坑)があり、新旧二つの記念碑が建立されている。その前で、犠牲になった中国人労工の追悼式を執り行なう。盧詩斌さん(写真手前中央で座っている人)が追悼式を見つめる。

 東寧労工墳=老城子溝万人坑
 この辺りに、1000体近くの中国人労工の遺体が、1メートル程の間隔で並べて埋められている。それぞれの遺体に土饅頭が盛られているが、土饅頭の様子は写真ではちょっと分かりにくい。写真右手奥に、東寧労工墳の二基の記念碑が見える。

 東寧労工墳=老城子溝万人坑
 老城子溝村北東部の山中にある遺体埋葬現場。1994年11月の調査では、現場の一角の120平方メートルの範囲にある18ヵ所の土饅頭が発掘され、18体の遺骨が確認された。

 東寧労工墳からの眺望
 東寧労工墳は、老城子溝村の北東部にある山の峠にある。その峠から、老城子溝村と反対の方向を眺める。反対側のこの盆地にも畑が広がり、その奥に大きな集落(町?)が見える。

 老城子溝村の人たち
 峠から村に戻った盧詩斌さんと外国人(日本人)の一行を、老城子溝村の人たちが迎えてくれる。外国人(日本人)といっしょに峠に登った盧さんが無事に帰りほっとしているのだろうか、皆がにこやかにしている。




「万人坑を知る旅」index

「 満 州 国 」 の 万 人 坑
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付 録 : 朝 鮮 を 知 る 旅
        朝鮮の人たちの日常 2014年

付 録 : 日中友好新聞連載記事
        中国本土に現存する万人坑と強制労働現場を訪ねる



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