鶏 西 炭 鉱 万 人 坑

 鶏西炭鉱万人坑
黒龍江省鶏西市

 鶏西炭鉱
 鶏西は、黒龍江省南東部の中心都市である牡丹江市から北東方向に直線距離で130キロ程の、ソ連(ロシア)との国境に近いところにある。鶏西の名称は、鶏冠山の西側にこの地があることに由来している。
 鶏西地区は石炭資源が豊富で、1916年に最初の炭鉱が開設され石炭産出が始まっている。1932年に「偽満州国」をでっちあげた日本は鶏西の石炭資源に注目し、1933年に鶏西炭鉱を支配下におく。そして当初は、滴道炭鉱株式会社密山炭鉱が鶏西炭鉱における日本の主な管理機構となった。その後、満州炭鉱株式会社の傘下の密山炭鉱株式会社が鶏西炭鉱を支配下におく。
 鶏西炭鉱を手に入れた日本の侵略者は採炭規模を順次拡大し、穆稜・滴道・恒山・麻山・城子河などに採炭所を拡げる。そして、各々の採炭所は、有神谷組・大福組など日本の多数の請負会社が管理した。また、林口から鶏西を経て密山に至る鉄道が整備され、滴道には発電所も造られた。

 中国人労工の徴用
 鶏西炭鉱での石炭採掘の労働力を確保するため、「偽満州国」内の炭鉱周辺の各県に「報国隊」や「勤労奉仕隊」を割り当て、中国人住民を労働力として強制的に徴用した。また、良い就労条件だと嘘を言ってだましたり問答無用の強制連行により、華北以南の各地から中国人を集めた。労工募集に応じてやってきた労工を無償で働かせることもよくあった。さらに、中国戦線の捕虜を「特殊労働者」として徴用したり、炭鉱の近くで無辜の農民を強制的に連行することも行なわれた。
 こうして集めた中国人を管理するため日本侵略者はいろいろな仕組みを作り上げている。たとえば、1941年に城子河で労働者の「訓練所」を設置し、500人余の中国人をそこに監禁し、炭鉱の警察組織の監視下で石炭採掘作業に従事させた。1942年には城子河・滴道などで「特殊労働者訓練所」を開設し、華北地区から送られてくる捕虜を収容し、労工として徴用した。さらに、1944年に城子河で「鶏寧司法矯正輔導院」をでっち上げ、東北各地から連行してきた「浮浪者」など500人余の無辜の人々を監禁し、強制的に炭鉱で働かせた。
 炭鉱に集められた中国人は自由を奪われ、逃げ出すことはできなかった。「訓練所」や「矯正輔導院」に収容された中国人は監獄の囚人と変わりはなかった。

 石炭採掘の奴隷労働
 炭鉱経営にあたる日本侵略者の関心事は石炭生産量の確保だけであり、中国人労工の健康や命は無視された。鶏西炭鉱に集められた中国人労工は、炭鉱の警察組織や日本軍の監視下で、衣食住とも劣悪な条件を強いられる中で長時間の過酷な労働を強制される。こうして消耗品と同様に扱われ過酷な情況に置かれた中国人労工は、厳しい寒さや飢餓・過労・衰弱・病気などで次々に命を失くした。
 炭鉱での事故も、中国人労工の死亡の大きな要因である。滴道炭鉱でも安全に対する配慮は無視され、一度に大量の死者が出る大規模なガス爆発事故が多発している。たとえば、1937年4月に老二炭鉱で62人、同年6月14日に二号炭鉱で176人、1942年にも二号炭鉱で140人、1943年に老二炭鉱で140人、1943年にまた老二炭鉱で146人がガス爆発事故で死亡した。
 このうち、1943年の老二炭鉱でのガス爆発事故では、ガスと炭の粉塵の量が多く爆発の危険が高いため作業を中止する必要があると副炭鉱長の徐成山が日本人責任者の顔川に事前に報告していた。しかし、労工の命ではなく石炭生産量の確保が一番重要だとして顔川は作業を続けさせた。そして間もなくガス爆発が発生し146人が死亡した。徐成山は日本人の顔川に逆らうことはできず、労工を避難させることはできなかったが、自分一人は逃げ出していたので難を逃れることができた。
 これらの重大事故の他に、一度に20人や30人が死亡する事故はよく発生した。さらに、数人が死亡するような小さな事故は頻発した。
 こうして中国人労工は次々に死亡するが、強制連行などで絶えず補充し、常に6万人の労工が鶏西炭鉱で確保された。人間を消耗品と同じように扱うこの悲惨な状況は「人間を石炭に換える」と言われた。
 この状況から逃れるため逃走を試みる者もいたが、逃走に失敗し捕まえられると、他の労工への見せしめのため日本人責任者は厳しく処罰した。たとえば、1940年の冬に逃走に失敗し捕まえられた恒山の労工はシェパード小屋に放り込まれ、シェパードに噛み殺された。1941年の冬に城子河労働者訓練所の7人が逃走に失敗し捕まえられると、城子河鉱山警備隊は零下20度の屋外にある電柱に7人を縛り付け、全身に水をかけ全員を凍死させた。1942年にも城子河鉱山警備隊は、逃走した6人の労工を捕まえ犬小屋に放り込み、6名を犬に食い殺させた。
 このようにして日本侵略者は、鶏西炭鉱を支配した13年間で1600万トンの石炭を略奪した。同時に、数万人の中国人労工を死亡させた。

写真撮影(2011年8月21日)と解説 青木 茂


 鶏西炭鉱万人坑記念館(階級教育展覧館)
 鶏西炭鉱の強制労働で死亡した中国人労工の遺体を焼いた死体焼却炉を保存するため、焼却炉を現場にそのまま残し、それをそっくり覆うように1966年に記念館(展覧館)が建てられた。写真は、記念館の玄関部分を、玄関前の駐車場から見上げている。
 記念館は鶏西市郊外のなだらかな山中にあり、鶏西市街から車で30分程かかる。愛国主義教育基地に指定されていて、一般の観覧者と共に学生も見学にやって来る。

 宋吉慶氏と王鳳武氏
 鶏西炭鉱万人坑記念館内の展示室にて。
 向かって左側が、東寧県文物管理所の前所長で現在はハルピン市社会科学院731研究所・特聘研究員の宋吉慶氏。右側は鶏西市文物管理所の王鳳武氏で、宋吉慶氏の一行を記念館と万人坑現地に案内し、あれこれ説明してくれる。

 鶏西炭鉱万人坑記念館・展示室 その1
 2011年8月に記念館を訪ねた時は改装工事中で、展示パネルや遺品などの大半は撤去されている。この展示室も展示パネルは全て外されている。ただし、死体焼却炉は記念館内にそのまま残されているので、焼却炉を確認するため休館中の記念館に特別に入れてもらった。

 鶏西炭鉱万人坑記念館・展示室 その2
 この展示室は展示品が完全に撤去されている。天井も、吹き抜け屋根の骨格がむき出しになっている。

 鶏西炭鉱の死体焼却炉(正面から)
 ガス爆発事故などにより鶏西炭鉱で死亡した労工の遺体を焼くため、死体焼却炉が鶏西に5基作られた。炭鉱での事故を隠すという狙いがあったとのことだ。
 写真は、1941年に作られた死体焼却炉。元は煙突があったが倒れてしまった。この焼却炉を保存するため記念館が建てられたが、鶏西に作られた5基の死体焼却炉のうち現在も残っているのは記念館内のこの1基だけ。

 鶏西炭鉱の死体焼却炉(背後から)
 死体焼却炉を背後から見る。写真手前左側の展示台に、焼かれた遺骨の一部が保存・展示されている。
 鶏西炭鉱の死体焼却炉では、1941年からの3年間で4000体以上の中国人労工の遺体が焼却された。しかし、焼却が追い付かず、そのまま万人坑に捨てられた遺体も多い。遺体焼却が1944年で終わった理由は分かっておらず、研究が続けられている。

 鶏西炭鉱記念館 復元された万人坑(正面から)
 記念館は改装工事中だが、館内に復元されていた万人坑は、この時点ではまだそのまま残されている。保存・展示されている遺骨は、滴道炭鉱の北側にある鶏西滴道炭鉱万人坑に設置されていた遺骨保存館が閉鎖される時に、ここに移されたもの。

 鶏西炭鉱記念館 復元された万人坑(内部)
 記念館の近くにある滴道炭鉱万人坑で収集された中国人労工の遺骨が、万人坑として復元されたここに保存・展示されている。保管されている遺骨の中に、頭蓋骨に釘を打ち込まれた遺骨も含まれている。
 だまされたり強制連行されたりして鶏西炭鉱に送り込まれた中国人労工は、衣食住とも劣悪な条件の下で過酷かつ危険な作業を強いられ、事故や過労・衰弱・病気などで多数が死亡した。遺体は、滴道炭鉱万人坑など周辺の万人坑に捨てられた。




 万人坑
 城子河炭鉱では、「特殊労働者訓練所」などにある3ヶ所の死体倉庫に中国人労工の遺体が毎日のように運び込まれた。1942年に日本人責任者から遺体処理を命じられた張生さんは、人捨て場に遺体を馬車で運ぶ作業を繰り返した。一回に運ぶ遺体は15体くらいで、人捨て場である二太堡万人坑に遺体を運び、ガソリンをかけて焼いた。こうして、1942年から1945年までに、城子河炭鉱の3ヶ所の死体倉庫から二太堡万人坑に運ばれた中国人労工の遺体は約5000体になった。
 張生さんらの証言にあるように、遺体の多くは炭鉱周辺に捨てられ、7ヶ所の主要な人捨て場・万人坑が鶏西炭鉱に形成された。また、死体焼却炉が鶏西に5基作られ、多数の中国人労工の遺体が焼却された。
 1960年代になると朝鮮戦争後の混乱もようやく治まり、中国各地で階級教育が進められる中で、滴道炭鉱の北側にある滴道炭鉱万人坑の一部を鶏西鉱務局が発掘・調査する。このとき、約4000平方メートルの範囲で、遺体を埋めた穴を12ヶ所発掘し、地表に近い三層の遺骨だけで約350体あるのを確認した。これらを含め、滴道炭鉱万人坑には一万体以上の遺体が埋められたと推定されている。
 また、滴道炭鉱に作られた死体焼却炉を保存するため、死体焼却炉とその周辺をそっくり覆うように階級教育展覧館が1966年に建てられた。展覧館には、遺体の焼却に用いた鉄板・鉄鉤・鉄斧・シャベルなどの用具が死体焼却炉とともに保存され展示されている。また、展覧館に保管された遺骨の中に、頭蓋骨に釘を打ち込まれた遺骨も含まれている。


 鶏西市滴道の三井村の集落
 鶏西炭鉱万人坑記念館から車で15分くらいのところに三井村がある。三井村に車を停め、三井村の背後の山中にある滴道炭鉱万人坑に向かい山道を歩いて登る。写真は、山道をほんの少し登ったところから三井村を振り返ったときのもの。

 滴道炭鉱万人坑の手前の植林地帯
 三井村の背後の山は元は草原だった。ここに林立している樹々は新たに植林されたもの。植林の林の中にできている踏み分け道を歩いて登り、滴道炭鉱万人坑をめざす。

 鶏西滴道炭鉱万人坑
 三井村から15分ほど山道を登ると、植林されていない草原が現われる。ここが、中国人労工の遺体が集中的に捨てられた滴道炭鉱万人坑。人が集まっているところに大きな記念碑があるが、記念碑は倒れたまま放置されている。写真左下隅にも、ここが万人坑であることを示す小さい石碑があるが、これも倒れている。写真右手奥は、万人坑現地に建てられた遺骨保存館。

 鶏西滴道炭鉱万人坑 記念碑
 滴道炭鉱万人坑に建立された高さ2メートルくらいある記念碑が、いつ倒れたのか分からないが、倒れたまま放置されている。記念碑には、滴道炭鉱万人坑の説明がけっこう詳しく刻まれている。写真右端の背を向けている人が記念館の管理人で、万人坑に至る山道を案内してくれた。

 鶏西滴道炭鉱万人坑
 万人坑が形成された当時は、この辺りの窪んでいるところに深い溝(谷)があり、そこに中国人労工の遺体が大量に投げ込まれた。溝(谷)は今ではかなり埋まってしまっている。写真右端中央あたりに、前述の大きな記念碑が(写真では小さく)見える。また、万人坑の山を下った先に、三井村周辺の畑が見える。

 鶏西滴道炭鉱万人坑
 この辺り一帯に深い穴を掘り遺体が埋められた。地面を深く掘れば、今でも遺骨が出てくる。周囲の樹々は新たに植林されたものだが、万人坑のある一帯は発掘や調査のため植林されず、元の草原のまま残された。写真中央のやや奥に、前述の大きな記念碑が(写真では小さく)見える。
 遺体(遺骨)はこの辺りに集中して埋められているが、少数の遺体がバラバラと埋められたところは他にもたくさんあり、滴道炭鉱万人坑全体では1万体以上の遺体が埋められたと推定されている。

 鶏西滴道炭鉱万人坑 遺骨保存館 外観
 鶏西滴道炭鉱万人坑で発掘された中国人労工の遺骨を安置した遺骨保存館。滴道炭鉱万人坑遺跡の一番高いところに1970年代に建てられた。

 鶏西滴道炭鉱万人坑 遺骨保存館 内部
 遺骨保存館内の囲われたところに、万人坑で発掘された遺骨が安置されていた。しかし、ここは三井村からも遠いので参観する人には不便であり、建物が老朽化し雨漏りするようにもなったので、別の場所にある万人坑記念館を増築し、そこに遺骨は移された。遺骨保存館は廃館となり、今では屋根も窓も無くなり廃墟となっている。



 鶏西炭鉱の生存労工:王志義さん
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 日本の侵略者が労工を虐待した鶏西炭鉱「特殊工人訓練所」
【李秉剛教授(北京)提供写真】
 鶏西炭鉱「特殊工人訓練所」の証人:死体運搬係の張生さん
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 労工が着ていたボロボロの衣服
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 事故で死亡した鶏西炭鉱の労工
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 鶏西炭鉱万人坑で発見された、殺害された労工の遺骨
【李秉剛教授(北京)提供写真】
 鶏西滴道炭鉱の死体焼却炉で使用された道具
【李秉剛教授(北京)提供写真】




「万人坑を知る旅」index

「 満 州 国 」 の 万 人 坑
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付 録 : 朝 鮮 を 知 る 旅
        朝鮮の人たちの日常 2014年

付 録 : 日中友好新聞連載記事
        中国本土に現存する万人坑と強制労働現場を訪ねる



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