鶴 崗 炭 鉱 万 人 坑

 鶴崗炭鉱万人坑
黒龍江省鶴崗市

 鶴崗炭鉱万人坑を訪ねる
 黒龍江省は中国東北三省の一番北側に位置し、ロシア(ソ連)と長い国境を接している。その黒龍江省の北東部に、鶴崗炭鉱万人坑がある鶴崗市は位置する。もう少し具体的には、黒龍江省省都のハルピンから北東方向に約300kmの、北方のロシア(ソ連)国境までは約100kmという位置に鶴崗市はある。
 その鶴崗市を訪ね鶴崗炭鉱万人坑を確認したのは2011年8月23日のことだ。鶴崗炭鉱万人坑に関わる史実と現状を正確に理解するため、ハルピン市社会科学院731研究所・特別研究員の宋吉慶氏(注1)と、佳木斯市旅游局開発科・元科長の楊斌旭氏(注2)に解説役をお願いし、同行してもらっている。
 2011年8月23日の昼前に佳木斯市で楊斌旭氏と合流し、佳木斯市から北上し一時間余で鶴崗市に入る。そして、鶴崗市の市街地の外れのなだらかな坂を上り、小高い丘の上に出ると、そこに鶴崗東山万人坑(記念館)がある。東山万人坑と鶴崗の街並みは隣接していて、東山万人坑の正面入口の前には民家などが建ち並んでいる。
 (注1)東寧県文物管理所・前所長。この管轄下に関東軍東寧要塞も含まれる。「偽満州国」における中国
     人強制連行について詳しい。
 (注2)1960年代の鶴崗東山に来たことがあり、たくさんの遺骨が積み重なっているのを自身の目で見
     ている。針金で縛られた遺骨も確認している。

写真撮影(2011年8月23日)と解説 青木 茂


鉱史館=外観
 鶴崗東山万人坑(記念館)の正面入口から構内に入ると、100メートル四方はありそうな庭園が広がり、庭園の奥の正面に鉱史館が建っている。東山万人坑の発掘現場に隣接して2003年に建てられた資料館である。鉱史館の本体部分は二階建てで、白い壁と赤茶色の屋根を持つ落ち着いた古風なたたずまいだ。鉱史館の両側には、同じ色あいの一階建ての事務棟などが併設されている。

鉱史館=館内の展示場
 鶴崗東山万人坑では、館長の王鶴氏と解説員の袁春紅氏が迎えてくれ、さっそく鉱史館(資料館)から案内してもらう。鉱史館内の展示場の広さは、幅40メートル・奥行き20メートル程だろうか。中央部が吹き抜けになっていて開放感がある。そして、鶴崗炭鉱の苦難の歴史と解放後から現在に至るまでのようすが、一階と二階に写真を主体に展示されている。そして、解説員の袁春紅氏が詳しく説明してくれる。

捕まえられ鶴崗に連行されたが生き残った労工・肖永財さん
【李秉剛教授(北京)提供写真】

 鶴崗炭鉱の歴史と日本による占領支配
 1914年に鶴崗で石炭が発見され鶴崗炭鉱の歴史が始まる。それから三年後の1917年には、民間の資金で設立された黒龍江湯原県興華炭鉱有限公司が石炭採掘を始める。鶴崗の石炭資源は豊富で、1926年には鉄道が開通し鶴崗炭鉱は発展する。
 しかし、1932年8月に、その前年の1931年に中国東北全土への侵略を始めていた日本により鶴崗は占領され、侵略者の日本による鶴崗炭鉱の石炭略奪が始まる。1937年には「偽満州国」産業五ヶ年計画が開始され、石炭増産要請を背景に東北地方全体で石炭略奪規模が拡大する。鶴崗炭鉱でも規模拡大が進み、興山・東山・南岡の三つの採炭所が稼働する。さらに、1941年に日本がアジア太平洋戦争に突入し広大な戦線を抱え込むと、石炭需要は一層増大する。石炭需要の増大に対処するため、鶴崗炭鉱でも採炭作業所を次々に増設し、立て坑と露天掘りを併せ500ヶ所の作業所が設けられる。
 一方、膨大な増産に対応する労働力・労工を確保するため、東北各地に徴用人数を強制的に割り当て、「報国隊」「勤労奉仕隊」「義勇奉仕隊」などとして中国人を徴用した。そのうち、鶴崗の各県から鶴崗炭鉱に徴用された人数は3万6950人になる。小さい坑口から石炭を掘り出すため子どもも童工として徴用された。1944年には矯正輔導院と刑務所を鶴崗に設置し、無辜の人を捕まえ収監し、強制労働に徴用した。

館内の展示パネル=ゴミのように捨てられた中国人労工の遺体
 採炭現場では、安全を無視した生産優先の石炭採掘が強行され、事故が頻発した。たとえば、1943年1月6日に南山の三つの炭鉱で発生したガス爆発事故では、炭鉱設備を火災から守るため、労工が坑内から脱出する前に出口を閉鎖し消火した。このため94人が死亡したが、閉鎖された出口の手前に多数の遺体が折り重なっていた。
 また、採炭作業は過酷になり、作業時間は延長され、略奪式の採掘が行なわれた。中国人労工は、衣食住全てが劣悪な生活環境の下で長時間の重労働を強いられ、飢え・過労・病気などで多数が次々に死亡した。たとえば、1942年に黄河近辺で募集された400人は過労や飢えで次々に死亡し、解放時には30人になっていた。1942年に華北地区で募集し興山二号炭鉱に配置された18歳から30歳までの1000人は、最後は90人しか残らなかった。こうして、鶴崗炭鉱株式会社は大型の強制収容所と化した。この状況は「人を石炭に換える」(以人換煤)と言われた。
 こうして、1932年8月の日本による鶴崗占領から1945年8月の日本敗戦までの13年間に、日本は鶴崗炭鉱で石炭1300万トンを略奪し、6万人の中国人労工を死亡させた。

館内の展示パネル=東山万人坑の中国人労工の遺骨
 鶴崗炭鉱万人坑の形成と解放後の鶴崗東山万人坑
 鶴崗炭鉱の強制労働で死亡した中国人労工の遺体は最初は木の棺に入れられたが、死者が多くなると棺には入れず荒野や山地にそのまま所かまわず捨てられ、腐敗した遺体が野山に散らかされた。荒野や山地など各地に捨てられた六万余の遺体の全てを確認することは今ではもうできないが、規模の大きい万人坑(人捨て場)が鶴崗炭鉱周辺に二ヶ所残されている。鶴崗東山万人坑はそのうちの一つである。
 日本敗戦後の1946年8月20日に発足した東山労働組合の最初の仕事は遺骨収集だった。東山周辺のいたるところに大量の遺骨が散乱しているので、木の箱を作って遺骨を集め、七ヶ所の溝(墓地)に埋葬した。
 1968年10月に鶴崗市政府が東山万人坑をようやく発掘調査し、長さ10メートル・幅8メートル・深さ5メートルの範囲で1000体余の遺骨を確認する。7体がまとめて針金で縛られている遺骨もあった。
 文革(1966年〜76年)時代の東山万人坑は「教育」の場として利用された。人々を東山に集め、日本の侵略下でたくさんの人が死亡した(殺された)典型的な現場として万人坑を見せ、鶴崗炭鉱の悲痛な歴史を教え、昔の苦しさを忘れてはならないと諭した。そして、解放後の中国人民の暮らしが幸せになったと教えた。

東山万人坑=万人坑入口の門と記念碑
 鶴崗東山万人坑保存館へ
 1968年に発掘された万人坑(人捨て場)を保護するため万人坑保存館が建てられ、1981年に鶴崗東山万人坑として省級文物保護単位に指定されている。
 鉱史館で袁春紅氏から説明を受けたあと、鉱史館を正面から見て左手側の奥にある東山万人坑の発掘現場=万人坑保存館に案内してもらう。鉱史館を出て中央の庭園を発掘現場の方に進むと、庭園の端に直径4メートル程の丸い通路を持つ門がある。その門の手前に記念碑が設置され、正面側に「省級文物保護単位/東山"万人坑"/黒龍江省人民政府/一九八一年一月二七日重新公布/一九八二年六月立」と刻まれている。

東山万人坑=保存館正面外観
 直径4メートル程の丸い通路から門を通り抜けると、その先の少し高くなったところに東山万人坑保存館が建っている。万人坑発掘現場を保存するため、発掘現場をそっくり覆うように真上に建てられたもので、幅30メートル・奥行き30メートル程の広さだろうか。高さは10メートル程はありそうだ。正面側の白い壁面に、黒地の背景に金色の文字で「東山万人坑」と表示されている。

東山万人坑=保存館内部
 万人坑保存館の中に入ると体育館のような大きな空間があり、周囲の壁面に解説パネルや写真がびっしりと掲示されている。保存館の中央部には、縦十数メートル・横十数メートル程の、植物園の温室のようにガラス張りで囲われる区画がある。そのガラス張りの囲いの中に、数メートルくらい掘り下げられた穴があり、薄暗い照明灯が照らす穴の中に膨大な数の遺骨が横たわっている。これが、1968年に発掘された鶴崗東山万人坑で、ここだけで1000体余の遺骨が確認されている。

東山万人坑=遺骨発掘現場の大量の遺骨
 万人坑保存館内のガラス張りで保護される中に万人坑(人捨て場)発掘現場がそっくり保存されている。今、目の前にあるこの膨大な遺骨を、この狭い一角だけで1000体余ある遺骨を何と表現すればよいか言葉に窮するが、保存館入口の門の前にある記念碑の裏面には次のように刻まれている(原文は中国語)。
 『東山万人坑は日本の侵略統治時代の人捨て場である。日本の侵略者の残酷な支配の下で、多数の鉱工(炭鉱労働者)が身体を壊され死亡し、万人坑に投げ捨てられた。元の人捨て場は長さ40メートル・幅30メートル程で、深さは7メートル近くある。1968年に80平方メートルが発掘され、おびただしい量の白骨が現場から発見された。突き刺され穴をあけられた頭蓋骨、へし折られた足の骨、縛り上げられた両手、針金で貫通された目・・・、その惨状は見るに忍びない。万人坑は、日本帝国主義が我が国の東北地方を侵略占領した時代に血なまぐさい支配を行ない、我が国の石炭資源を狂ったように略奪した歴史の証拠である』。

東山万人坑=遺骨発掘現場の大量の遺骨(拡大)
 鶴崗炭鉱では6万人の中国人労工が死亡し周辺のいたるところに遺体が捨てられたが、統計によると、そのうち1万体が東山に埋められている。
 東山万人坑の元の人捨て場は、長さ40メートル・幅30メートル・深さ7メートル程度の範囲が確認されているが、それ以外にもいたるところに遺骨は散在していて、見つからない遺骨も多い。他の場所を発掘すれば遺骨がもっと出てくるだろう。
 現在、鶴崗炭鉱に関わる万人坑で整備されているのは東山万人坑一ヶ所だけで、鶴崗周辺で他の人捨て場・万人坑を発掘・調査する計画は無い。東山万人坑の見学者は多い年で年間5000人程あり、外国人の参観者は主に韓国人か日本人だが、日本人は少ない。
 ともあれ、侵略国の日本から中国に行った当時の普通の日本人がこの侵略犯罪を平然と行なったことを、今の日本人は忘れてはならない。



 鶴崗の労工の労工証
【李秉剛教授(北京)提供写真】
 鶴崗炭鉱の物品引換券
【李秉剛教授(北京)提供写真】
 鶴崗鉱業所の現場監督が使用した器具
【李秉剛教授(北京)提供写真】




「万人坑を知る旅」index

「 満 州 国 」 の 万 人 坑
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華 北 の 万 人 坑
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付 録 : 朝 鮮 を 知 る 旅
        朝鮮の人たちの日常 2014年

付 録 : 日中友好新聞連載記事
        中国本土に現存する万人坑と強制労働現場を訪ねる



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